Kikko*TXT

逃げる女に追う男

柚木桔子
どこまでもおいかけて欲しい女と
どこまでも追いかける男
こんなものを、恋とは言わない

「それじゃぁユカは、一時間前にここに来たんですね」
「ああ。いつもの席で、ロング一杯だけ飲んで帰ったよ、なんか食いたいもんがあるんだと」
「そうですか、有難うございます」
 顕治はそのままカウンターのスツールに腰を掛けると、いつものようにグラスホッパーを頼んだ。
 繁華街の奥にあるここは顕治が大学生の頃から通っている店であるが、バーとしては少し散らかった内装をしていた。
 入り口から奥に向かって伸びる、縦に長い店のその壁に何故か描かれた白い天使の絵――宗教画ではなくギリシャ神話らしい――が、明度を落とした照明の中でぼんやりと浮き上がっていたし、バックバーには酒に混じっていくつものプラモデルが雑多に並べられていたし、その反対側の壁一面には、趣味のように経営しているオーナーが、思いついては置いていく小道具にあふれた、ガラス戸の付いた横長の棚が置かれていた。側面にバイオリンが吊るされたその棚の中には、古いミステリー小説やオルゴール、外国製のボードゲームやくるみ割り人形などが入れ替わり立ち代り入れられて、ひっくり返ったおもちゃ箱のようだった。
 店の奥には、きちんと正しい距離で設置されているというオーナー自慢のダーツボードもあったが、壁の鳩時計を見上げるような豊満な女神の壁画の、顔半分を覆い隠すように取り付けられたその的が、実際に使用されているのを顕治はまだ見たことがない。
 落ち着きがあるとはとても言えないインテリアの数々は、多くの客の来店を止めたようだったが、しかし顕治には関係のないことだった。顕治は酒を飲む場所のデザインにセンスを求めないし、客の出入りは少ない方が顕治にとって都合が良く、それは、通い始めた大学生の頃から変わらなかった。経営状態に興味はないので聞いたことはないが、オーナーが隠れ家だと言って憚らないこの店は、確かに顕治のような常連客が支えているのに違いなかった。
「追いかけないのか? ユカちゃん探してるんだろう」
 顕治の前に、ナッツとチョコの小皿が置かれる。
「そうですけど、今行ったらすぐに捕まえちゃいますから」
「から?」
「ここで時間潰し」
 短い髪を上に撫であげ、バッチリ決まった雇われバーテンダーの亮さんが、あまり丁寧とは言えない手つきで材料をシェイカーに放り込みククと笑った。リズム良くシェイカーを振る亮さんの、その手付きは様になっているが、レシピが毎回適当なので飲むたびに味が変わる。酒にこだわりのない顕治にとって、それはさしたる欠点ではなかったが、これも客が少ない理由の一つだろう。
「お前らまだやってんのかい」
「またやってるんです」
 亮さんが出来あがったカクテルをグラスに注ぎ、カウンターの上にコトリと置いた。少し濁った緑色のそれは顕治の目に面白く、甘いがミントで口当たりもいいために、酒の味の分からない顕治の最近のお気に入りだった。
 顕治がグラスを煽るのを見て、手の空いた亮さんが胸ポケットから煙草とライターを取り出し火をつける。煙の匂いをかいだ顕治が、嫌そうに顔をしかめた。オーナーの不真面目さをいいように解釈したこのバーテンダーは、少し暇ができると好き放題に遊びだす。それは別に構わないが、煙草は欠点。頭の中で採点をして、顕次は小皿に入ったナッツを摘み上げた。
 ユカがいなくなるのはよくあることだった。
 喧嘩も何もしていないのに突然連絡がつかなくなり、家にも友達の部屋にも寄り付かない。顕治以外の電話には出るようなので、知らない内に何かやったかと、初めは青くなって探し回ったが、それを三回繰り返した頃に、ごっこ遊びのようなものだと分かってやめた。
 ユカは、顕治の知る場所にだけ立ち寄っては、行く先々で律儀に次の目的地のヒントを落として逃げ、毎回ケロッとした顔で顕治を迎える。
 亮さんが頬を窄めて煙を吸い込み、横を向いて吐き出した。
「今日で何日目?」
「一日」
 ユカが学生の頃から続いているこの遊びは、今ではユカにも仕事があるので、多くの場合は連休前日の就業後から始まる。たまに捕まえられないまま休日のタイムオーバーを迎えたが、鬼ごっこはその後もユカの就業時間を除いて続けられた。いつものように金曜日の夕方から始まった今回は、しかし今はまだ土曜日の宵の口であるため、延長戦に入りそうにはない。
「今回のヒントは食い物?」
「ええ。こないだテレビを見ながら、食べたいと言ってたものがあるので」
「へえ」
 ユカと食の好みの合う亮さんが、少し興味を持ったようだった。休みの日にはよく食べ歩きをするという亮さんが、ユカとおすすめのお店談義をしているのを何度か聞いたことがある。
「でも一時間も経つんじゃ、ユカちゃん離れてるんじゃないのか、その店」
「行列のできるラーメン店らしいですよ、深夜開店の」
 亮さんが、ああと声を上げた。
「それで時間潰し」
「天日塩と国産レモンで作る、こだわりのサッパリ系スープに、分厚く濃厚な自家製チャーシューを乗せた、戦うOLに人気のガッツリ飯だそうです。OLに人気なのに深夜から営業ってのがよくわかりませんが、まあそういうのも嫌いじゃないんで」
 開店時間の直前に行き、捕まえついでに一緒に夕食を済ませる気でいた。普段は家で自炊をしており、食生活にはある程度のこだわりを持つ顕治だったが、外で肩を並べて麺をすするのもたまには良いだろう。
「分かってんのに、一人で寒空の下並ばされてんのかユカちゃん」
「待つの苦手で」
 追いかける専門だもんなあ。
 亮さんが、銜えた煙草をガラスの灰皿に投げ入れる。張られた水が穂先に触れて、まだ長さのあるそれがじゅっと抗議するような音をたてた。
「あと一時間半ぐらいか? 開店まで」
「移動時間を引いたら五十分ぐらいですね」
「ならあと二杯はいけるな。ソルティドッグでも飲んで、口の中もっとさっぱりさせて行きなさいよ」
 不真面目なバーテンダーはちゃっかりと商売をすると、勝手にグレープフルーツを絞り始める。ミントとはまた違った、爽やかな柑橘系の匂いが鼻腔をくすぐって、少し沈んだ酔いを覚ました。
「あれ、顕ちゃん来てたんだ。いらっしゃい」
 ガランと音がして、店の奥からでなく客用の出入り口からオーナーが顔を出した。細かいシルバーのラインが入った、上等の黒のスーツを着た彼は、金持ちの一人息子だったというが、もう四十にも届くのに家庭をもたず、あちらこちらへと漂うように遊びまわっている。今は、最近開いたスイーツバーにかまけているとのもっぱらの噂だった。
「またユカに逃げられてるそうですよ」
「へえ、よくやるね」
 オーナーが、顕治の横の椅子を引きながら、烏龍茶と言う。亮さんは、片眉を上げてタンブラーに氷を入れると、カウンターの上に置いて瓶のままの烏龍茶を差し出た。何店舗も酒場を経営しているくせに、彼はあまり酒が得意ではない。
「羨ましいな」
 オーナーが言った。
「僕も一度ぐらい、そうやって追いかけられてみたいもんだよ」
「誰から?」
「誰でも」
 グラスから、氷を指で摘んで口に入れたオーナーが、烏龍茶を注ぎながらガリガリ噛んで、また亮さんの眉を上げた。

「ユカが言ってました、追いかけられるために逃げるんだって」
「そうだね」
「だから俺は、逃がすために追いかけるんです」
 ユカを捕まえたいと思ったことは一度もない。ただ、満足させてやりたいと思った。
 この手からすり抜けさせるために、顕治は彼女を追う。手のかかる子供のように脱ぎ捨てる服を拾って、その背中を洗ってやり、広げたバスタオルから逃げるのを捕まえ、パジャマのボタンを留めてやる。
 こんなものを恋とはよばない。
 いつか、ユカはごっこではなく自分の手元を離れていって、逃げなくても良い相手と共に、また新しい遊びを作るのだろう。そしてその日、顕治は泣くのかもしれなかった。ただそれが、花嫁に出す親の涙なのか、転校するクラスメイトに手を振る子供の涙なのかは、顕治にもわからなかった。ただ今は、その日がもうすこし先であることを願う。
「難儀だね」
 オーナーが、顕治の髪をくしゃっと撫でた。