太夫道中
それは蝉のよく鳴く日であった。
数日前からの土砂降りで、雨も心配されていたが、夜も更ける頃にはさっと上がり、昼前にはぬるい風も穏やかになった。
青い空に白い雲がもくもくと立ち上る中、夏の日差しにじわりと滲む汗を拭った時、路地の奥から二挺の駕籠が頭を出した。威勢の良い駕籠舁の掛け声が辺り一体に響き渡り、今か今かと待ち構えていた町の者たちが次々と戸口から顔を突き出した。
皐月太夫の身請けが決まったのは梅雨もあける頃だった。
新町の、天下に聞こえる大太夫を落籍せたのは町一番の造り酒屋のご隠居で、一昨年の暮れに長年寄り添った奥方を亡くしていた。その頃に家督を、頭は固いが良くできた長子に譲り渡したと聞いたが、そちらの方は現役で、来世に銭は回せないの口癖通りに気っ風が良く、学があって世辞にも通じると色里でも盛名を馳 せた大御仁であった。そう頻繁に通うことももうないが、何につけては惣花を惜しまず、紋日には必ず花代だけくれ仕舞をつけるなどよく遊び方を心得たもの で、楼主の覚えもめでたく妓からの人気も高かった。近年では、孫ほどにも年の離れた皐月太夫を大層かわいがり、また太夫もそれを喜んで仲がいいとの評判 で、見世の遣手などは、この粋なご隠居が最後の華にと太夫の身を落籍てはくれまいか密かに願っていたくらいであった。
皐月太夫はここから七里も 行った先の田舎の生まれで、女衒に連れられ十二の頃に廓に入った。禿としては少し年かさがあったが、その利発さからじき振袖新造となり、姉遊女の太夫にも よく目を掛けられて、独り立ちのその盛大な突き出しに越後屋の夜具を送ったのもまた、当時は鶴屋を一手に仕切っていたこのご隠居であったという。
また皐月太夫といえば太夫の内でもすこぶる三味線に優れ、鈴のように唄う。少しぼったい切れ長の目も良いが、それより素直で愛嬌がいいと評判だった。二十五になりそろそろ年季の明けもみえはじめ、やれ国に帰るか留まるか、それとも誰かが身請けするかと、町の男達は高嶺の花を思い出しては噂に出したものだった。
藤七が太夫を見たのは二年前の夏だった。奉公先の主人に連れられて、祝い事で茶屋に入った。呼ばれた芸妓達が酒に唄にと舞い踊り、今までみたことのないようなきらびやかな世界に圧倒された藤七は、その帰りの道で皐月太夫の太夫道中に出くわしたのだ。
山吹色の長柄傘の下で引船に手を取られ、二人の禿を前にゆく太夫。豪奢な朱色の打掛三枚に、心の字に結んだ錦糸の帯、豊かな緑の黒髪をたて兵庫に結いあげ て、べっ甲の簪をふんだんに挿す。少し厚い伏し目がちな目を鮮やかな紅花色でくっきりと彩り、小さな桜の唇に紅をさし歩くその姿は、大名道具の名に恥じな いたわやかさであった。裸の足を三枚歯下駄の上に置いて、内八文字にしゃなりと動くと、頭の横で珊瑚のびらびら簪がシャンシャラと揺れた。
太夫を見つめてあれは誰かと聞く藤七に、奉公先の主人が扇屋の皐月太夫だと答えた。主人が、お前が会うには四年はかかると笑ったが、藤七の耳には届かなかった。
藤七は近江の田舎の貧しい農村部で、七男坊として生まれた。藤七を転がすように育ててくれた両親は、猫の額ほどの田畑で米と野菜を作って生活しており、寺に通っては学問をする藤七に随分呆れていたようだったが、小さな畑には人手が余ると言って十三の頃に追い出され、檀那寺の伝手で大坂の呉服屋に奉公に入った。少々算盤ができたので、主人は藤七を重宝がって連れ回し、藤七もまた伴のように付いて歩いた。何くれとなく世話を焼いてくれる旦那を藤七は第二の親の ように慕っていたが、時折持ち込まれる縁談からは、のらりくらりと逃げ続けていた。
藤七には思い出があった。藤七の家から寺へと向かう蓮華畑で いつも花摘みをしていた女の子。藤七の目から見ても襤褸の着物を纏うその子はお河童頭に花の冠をつけていつも一人だった。時々村の悪ガキ共が寄ってたかってその子の着物を揶揄したが、その子は泣くどころか自分より大きな体の男の子に掴み掛かっては投げられていた。
静かだが男勝りな女の子。気の弱い藤七はそんな娘の事が気にかかり、今日声をかけよう明日声をかけようと決心をしては通り過ぎ、毎日足繁く寺に通った。
ある日、藤七がいつものように寺に向かうと、女の子はいなかった。珍しいことだと思ったが、たまにはそんな日もあるだろうと気にも掛けずに住職から算術を習い、その帰り道に空を見上げて泣く娘を見た。声も上げずに涙を流す娘のその横顔に、藤七は時間を忘れて棒立ちになり、何度も手を伸ばしかけて、結局そのまま家に帰った。
娘を見たのはそれが最後だった。
父親が死んだのだ、と随分後に藤七は住職から聞いた。幼い子供五人を抱えた母親が途方に暮れて、娘を一人、女衒にやったと。娘は母親に、これで皆綺麗なおべべが着られると笑ったという。
「待ってました千両太夫!」
どこか沿道から揶揄が飛ぶのが聞こえた。すると数歩も行かないうちに駕籠が止まり、皐月太夫が輿から降りてきた。吉祥文様の刺繍に摺箔まであしらわれた大層豪華な打掛に身を包み、帯を後ろに結んだ皐月太夫は、三歩前に歩み出ると路端の野次馬達を切れ長の双眸ですっと見渡し、深々と頭を下げた。もう伴も誰も連れていないが、品に溢れ張り詰めたように美しい所作に、町の者は皆息を呑んで太夫を見た。
太夫が面を上げるその時、藤七は一瞬目が合ったように感じた。射抜くように凛とした眼差しが一瞬、こちらを見て綻んだような気がしたのだ。
「あれあ俺を見たんや」隣の男が声を上げ、連れの男が
「阿呆、あない綺麗なこったいさんがお前なんぞ見るもんやないわ」
はっとして前を見ると、皐月太夫がその身を屈め、また駕籠に乗るところであった。
藤七は笑って踵を返すと、おつかいの風呂敷を抱え直し店へと歩き出す。きよ、幸せになれ。