Kikko*TXT

子供の産まれる家

柚木桔子
子供は勝手に産まれるが、親は勝手には生まれない。
出張先にいる夫。

「聞いてくださいよ、うちの娘の男がね、いえ、もちろん私は認めちゃいませんがね」
 それはたまたま入った居酒屋だった。出張先の夕食にコンビニ弁当も侘しかろうと、晩酌ついでに目に留まった暖簾をくぐったのだ。どうせなら比較的身体に優しいものを食べられて、酒も呑めるところが良いと考えてのことだった。看板に魚の絵が描かれていたから、おそらく魚介類をウリにしているのだろう。
 赤提灯に照らされた引き戸を開けると、ずらりと並ぶ魚やら甲殻類やらの入った水槽が目に入った。通路に沿って置かれているそれをよけて、奥の一人席へと向かう。ここは筧の宿泊先の駅前ホテルから暫く歩く、人通りの少し寂しいところではあったが、味が良いのか意外と店内に人は多かった。
 一人分だけ空いていたカウンター席の背もたれに脱いだコートを引っ掛けて座り、注文を取りに来た若い店員にビールと焼き魚に小鉢を二、三品頼んで一息ついたとき、横になった中年のサラリーマンが話しかけてきたのだ。
「甲斐性がないっていうんですかね、男はもっと矜持を持つものですよ。この間なんて、割り勘でレストランに食事に行ったと娘が話していましてね、聞けば、それもそう高くはないところですよ。もう吃驚しましてね」
 隣の客は、卓に空いたビールジョッキを二つ並べて置いており、手には焼酎の入ったグラスを持って既に出来上がっているようだった。  
「だから言ったんですよ、あんな会社はどうせろくな男が居ないんだから就職なんて止めておけって。ちょっとパソコンが出来るからといって、やれITだ、やれ情報社会だなんだと調子に乗ってね、そんな会社はすぐに潰れてしまうに決まってますよ。仕事は足を使って、靴をすり減らして毎日汗だくになってやるもんですよ。おたくもそう思うでしょ? 会議をテレビでやると聞いた時にはもう、私はぞっとしましたよ」
 よりによって自分に話しかけるとは、と同じくIT系企業に勤める筧は思ったが、暫くは客の話すままに適当に相槌を打った。しかし話はなかなか終わらない。
「披露宴なんてしない、貯金に回すだなんて言うんですよ。私は娘が不憫で不憫で」
「はあ」
 筧は届けられたビールと突き出しの枝豆を突きながら上の空で返事をしたが、言いたいだけの男はそれに文句も言わずに一人で話しを続けた。
「女の子はやっぱり白いお姫様みたいなドレスか、きちんと誂えた白無垢を着るのが一番の幸せってもんでしょう。娘はね、そりゃあ器量良しとは言えないですよ、私の子ですから。でも世の中にはもう少し、娘に似合う男も居るってものですよ 」
 二十五年間手塩にかけて育ててきた娘が結婚するらしかった。同じ会社に勤める二歳年下の娘の後輩が末来の旦那で、酒が飲めずゴルフもやらない、気の利かない男なのだという。
 今時の子らしくなかなか堅実なようだったが、男はそれが気に入らないらしい。
「浪費家でないのだけは認めますがね、そんな一生に一度の事も存分にさせてやれない男が家族を幸せにできますか? 私は妻には三回お色直しをさせましたよ、おたくは……一回ですか、なに一回でもやれば十分ってもんです」
 勝手なことを言ってはちびちびと酒を煽る男は、でっぷりと肥えたお腹に禿げた頭と濃い眉を持った、いかにも女性受けの悪そうなくたびれた男だった。思わず自分の会社の評判の悪い狸部長を思い浮かべ、部下は苦労するだろうと思ったが、その顔にふと、重なる横顔がもう一つあった。その人は痩身で神経質そうな顔に細い眼鏡を掛けた初老の男で、容姿似ても似つかなかったが、酒と一緒に文句を肚に呑み込むその横顔が、自分に妻を頼むと言った、筧の妻の父親に見えたのだ。
 妻とは、会社の同僚が開いた合コンで知り合った。
 大学院を出てから入社をした筧が、そろそろ仕事にも慣れた三年目の頃で、人数合わせにと拝み倒されて参加したものであった。まだ結婚も考えていなかった筧にとっては人付き合いの一環のものでしかなかったが、そこに、目立たないがよく気の利く女がいたのだ。
 小さな製造会社でOLをしているという彼女は、自分からはあまり喋らないが人見知りということはなく、話しかけられればきちんと答え、卓に並ぶ大量の料理を手際よく捌いては酔った者の面倒を見た。他人の邪魔にならないように食事の前に一人で小さく手を合わせ、雰囲気を壊さないよう小声でいただきますと言ったのが印象的だった。
 後で聞くと、彼女は共働きで店をしている家の一人っ子で、忙しい両親に代わって育ててくれた祖父母に厳しくしつけられたのがいまだに癖になっているのだという。自分も人数合わせに呼ばれたのだと、大事な秘密を共有するように穏やかに笑った彼女に、筧はすぐに恋に落ちた。
 最初のデートは映画館で、当時はやっていたSF映画もそこそこに、まるで初恋に浮かれる学生のようにそわそわとして、スクリーンを見つめる彼女の横顔をちらちらと見た。プロポーズは星の見える展望台で、と思ったが、気恥ずかしさのあまりに言葉が詰まり、結局ムードも何もない殺風景な自分の部屋で、ただ一生、君と一緒に居たいとだけ言った。
 大騒ぎの結婚式から三年目、それは突然の事だった。 妻が、子供ができたといったのだ。――彼女に何と答えたのかは実はよく覚えていない。ただ、参ったと思った。
 夫婦共働きで正社員として働き、毎日定時に帰っては夕食を作って待っていてくれる妻の不貞は考え得ないので間違いなく自分の子供であるだろうが、子供を得るという感覚が理解できないと分かったとき、自分は父親ではないと思ったのだ。
 堪えようのない違和感は自分のものではないようで、鏡の向こう側にあるように遠いものであったが、それも縮まるどころかじくじくと変わらず筧の中に広がり続け、もう既に九ヶ月が過ぎ、予定日は明日で、出産日は今日だった。
 予定日を聞いていた上司が、今回の出張は同僚の叶に代わって貰えと何度も言ってくれたが、筧は是非と言って無理に来た。二人の子供を持つ子煩悩な上司が複雑そうな顔をしていたが、妻は特に表情を変えずに、近くに住む筧の母親に来て貰うとだけ言った。
 子供は、筧が取引先を訪れた頃に産まれたらしい。
 取引先オフィスでプライベートの携帯電話の電源を切り、数ヵ月後に導入する予定の新しいシステムの、その従来からの変更点と効果についてを説明し終え、粗方の合意を得て廊下に出た時、筧が電話の電源を入れたのを待っていたように一本の電話がかかってきたのだ。母親からだった。
「あなた今どこに居るの、いいから今すぐ帰っていらっしゃい」
 怒鳴り声からはじまったその電話は、妻の出産の無事を伝えるものだった。呼ばれた母が筧の家に行く前、日課の朝の散歩に出ようとした時に陣痛が始まり、連絡を貰って飛び上がったという母が車でかかりつけの産婦人科に送り届け、それから間もなくの安産であったという。
 何度電話をかけても繋がらず、十分毎に病室と公衆電話を行ったり来たりしたという母親は、妻に申し訳がないやら情けないやらで気が気で無かったと文句を言った。
「子供がこんなに親孝行に産まれたというのに、親のあなたが奥さんをないがしろにするだなんて」
「そうは言っても今出張に出ているから帰るにはまだ日がかかるよ、俺にも責任があるんだから」
「何が責任ですか、調子のいいように。佳奈さんを一人置いて、そんなつまらない言い訳をしたって通じませんよ」
 さすが筧を育ててきただけあって、筧の考えなどすべてお見通しの母親に、筧はまだ取引先にいるからと強引に通話を切った。妻の身重を聞き知っていた馴染みの担当者に、もしかして産まれましたかと聞かれ、どうもそうらしいと答えたら、こんな時に呼んでしまって申し訳なかったと平謝りに謝られ、繰り返される祝いの言葉を他人事のように聞いた。あとは電話でどうにでもなるからと、家に帰るように勧めてくれる親切な担当者に、理解のある妻だからとしたり顔で答えるとますます恐縮されて閉口した。
 それから妻にメールの一つも送らず、会社に連絡も入れずに居酒屋に向かった自分を、やはり父親にはなれそうもないと思う。そういえば筧はまだ、産まれた子供の性別も知らなかった。
「娘が五歳の時にはね、お父さんと結婚するだなんて言ってくれたのに、今ではそんな事すっかり忘れてしまっているんだから、子供なんて薄情なものです。私なんてその日は嬉しさのあまりに眠れなかったものですよ、目を真っ赤にして会社に行って、どうしたんですか、なんて女の子達から聞かれてね。――娘を世界一幸せな花嫁さんにするために二十年間もずっと働いてきたんですよ」
 隣の男のダミ声は、染み入るような呟きに変わっていた。
「お子さんをとても愛していらっしゃるんですね」
 普通に答えたつもりだったが、どうもおかしなように聞こえたらしい。ずっと下を向いて南瓜を突ついていた男が顔を上げて筧を見た。
 いえ、何でもありません、――そう言いかけて、思い直した。妻の父と同じ顔を持つ彼は、全ての父親と同様に、子の親になったのだ。
「子供がね、産まれたそうです、今日」
 男は、おめでとうとは言わなかった。ただ静かに筧の言葉を聞いていた。
「今出張中なんです。私はまだ、妻に何も声をかけていません」
 筧はそうして、もうすっかり温くなってしまっているビールを一口飲むと、
「何で、そんなにお子さんを愛しているんですか」
 男は、今までの饒舌が嘘のように何も話さなかった。ただ一言、すぐに分かりますよとだけ答えた。
 筧がいつの間にか届けられていた焼き魚に手を伸ばした時、椅子の背もたれに掛けたコートのポケットからじりりと電話が鳴った。どうもマナーモードに設定し忘れていたらしい。男に断って電話に出る。病院に居るはずの妻だった。
「出張中にごめんなさい。お義母さんが、電話したらと言ったから。最近は病室からも電話が出来るのね。お仕事上手くいってる?」
 妻の声は変わらず落ち着いており、その内容まで筧の毎回の出張時と変わらなかった。
 まるで、今日がいつもと変わらないただの一日であるように話す妻の声に、筧は喚きたいように苛立った。何を暢気な、他に言う事があるだろう。
 ――そう怒鳴りかけた時、電話の後ろで子供の声が聞こえた。生後間も無い乳児特有の、こもったような泣き声で、ぎゃーと元気に喚いていた。
 少し妻の声が遠のいて、ほらお父さんだよと言ったのが聞こえた。
 静かに涙を流す筧を見て、隣の男が「ね」と言って肩を叩いた。